モノは言い様、捉え様
心理学や、組織(心理学)、それに関連したプロジェクト管理系の本を読んだりして、勉強し直しているわけですが、心理学って、ちょっと有名な、フロイト、ユング、アドラーになると、途端に哲学っぽい感じになるんですよね。
なので、哲学の領域に少し足を突っ込んでいるのかもしれないなと思ったりします。
そうなると「言葉」というもので世の中をどう捉えるか、「言葉」ってどういうものなのか、ということになるのですが、こういう話を考え出すと、高校1年生になる前の春休みに蛍光マーカーを引き引き読んだ「ことばと文化」という岩波新書の内容が頭をもたげます。
思えば、この本は私が「言葉」で人は世界を捉えて現実を認識する、その現実は一人一人違うんだと考えるきっかけになった本でした。
もう、何十年も立っているので、この本の主張とは違うことになっているかもしれませんが、ことばと現実の話。
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人は日々、その人なりの現実を捉え続けていて、それがその人を形作る
人は選ぶ言葉によって、周囲を把握している。主観的に捉え、その人の現実がつくられる。
その日々、捉え続けている現実が、そのうちその人の価値観になり、その人の世界になる。
例えば、以下のような言葉を聞かないだろうか。
- 「XXXな場合は無視すればいいんだよ、自分はいつもそうしてる」
- 「気難しい顔をしている人は案外話してみると気さくだよ」
- 「30分も遅刻するなんて」
- 「人のものは勝手に持って行ってはいけない」
- 「もう、約束の時間まで5分しかないよ」
それぞれ、その人の過去の経験やその人から見えている現実ではそういうように見えているということ。常識も国や環境、文化が変われば違う。その人なりの常識も同じようなことになる。
自分をずっと否定されて育つ人は、そういう世界観で自分の周りを捉えてしまうから、自分に対する評価が低くなりがち。自己肯定感や自己受容度が低かったりする。
自分で何かを選んで行動した経験が少ない人は、自分で出来た経験がないから、自分を信じられずに、自己効力感が低かったりする。
自分に対する自己評価は、そのまま、その時の自分の行動や反応に影響する。
自分に自信がなければ挑戦はしにくくなる。できる気がしていないので、再トライをせず、何かを諦めることも早くなる。
相手が良い反応をしてくれると信じきれないから、相手がどう反応するか反応が返ってくるまで、あれこれ心配して考えてしまう。
足りない自己肯定感や効力感を埋めるために、他者への承認要求が強めになる。
その人の現実は、そうやって日々、形作られる。その人の行動も態度も表情もそうやって日々作られ、それが周囲の人から見たその人像を作る。
これが巷で言う「ひきよせの法則」とか、そういうことにも関連している気がしている。
人は「言葉」で現実を理解する
その現実は「ある」だけではその人にとって「ある」ことにはならない。
目の前にあるものや、目に見えない概念なども、ことばでラベルをつけて他と区別しなければ意識されない。意識されないのはほぼ「ない」のと同じである。
例えば、植物に興味のある人は駅の庭木もそれぞれ違っていて、違うものに見えているが、植物に興味がなくて種類がわからない人にとっては違いを意識しないし、わからない。同じに見えているので、違うものとしてはそこに「存在」しない。もしかしたら、庭木自体がそこにあった認識すらないかもしれない。
時間の概念も考慮に入れたら、記憶にない、覚えていないことはその人の現実としては存在しなかったのと同じこと。(そうはいっても他の人が覚えていたら「存在」したのは確からしいと言うことにはなるが、その人としては「存在」しない。モノは考え様で捉え様である。)
(家族は歳が妙齢なので、記憶力に若干、難があるが、自分が覚えてないことは「なかった」と言い張るので、困る。それも本人的には真実ではある……)
言葉は何かと比較する、条件を加えることで意味が明確になる
人は言葉を使って、その周囲を世界を捉えているが、「言葉」自体はどうだろうか。
例えば、「良いこと」と「悪いこと」。この世から「悪いこと」が全部なくなったら「良いこと」は定義できるだろうか。意識できるだろうか。
暴れん坊将軍は悪代官がいるから、勧善懲悪で成立するけれど、悪代官がいなかったら、ただの困った将軍かも?「善」のままでいられるだろうか。どんなシチュエーションでも問題ない、完全な「善」はきっと「存在」しない。
「素晴らしい」ことはいつでもどこでも同じ様に「素晴らしい」だろうか。その時、「素晴らしい」と思ったことも、今考えたらそうでもなかったり、他の人から見たらそもそもそうじゃなかったりしないだろうか。きっと、「素晴らしい」と思ったからには、その理由や背景があって、その時、その人が、その条件で「素晴らしい」と思ったはずで、絶対的「素晴らしい」はきっと「存在」しない。
さらに、「光」と「影」。「光」がなくなったら、「影」は存在できるだろうか。そんな概念は残るだろうか、定義できるだろうか。難しい気がする。
目の前に、そこに事実はある。
けれど、言葉にした時、その言葉はその言葉のその人なりの捉え様や言い様でさまざまに変わる。「言葉」だけに注目してみても何かと比較したり、条件を加えて比較するなどしないと「言葉」は意味をうまく持たない。名詞も「言葉」なので、それを「言葉」で説明する、認識するのに限界があるのかもしれない。
呟いてみてまとめ
実在論とか、実証主義とか、構造主義とか、哲学系の話題がアドラーなどをみていると出てくるので、言葉ってやっかいだなぁと中高生の時に思ったきっかけの本を思い出し、最近、学んだ心理学の分野の考え方も入れて頭の中の整理してみたものです。
ピンとくる同じ様な方もいらっしゃるでしょうし、こない方もいらっしゃると思います。
こういうものは後で見返したら、自分にも発見がある気がしたので、記録しておきます。。