心の解析メモ〜個人的心理学整理ノート〜

ビジネス&普段に役立つ心理学

自分なりの現実を哲学してみる(アドラー心理学を復習して)

アドラー心理学ってきいたことありますか?
8、9年前に流行した「嫌われる勇気」という本の元になった心理学領域です。

海外では、フロイトユングに並んでアドラーが有名どころなのだそうです。

内容は正直、どちらかというと哲学寄りのような気がしてますが、暫くぶりに本を取り出して読んでみました。

借りてくると、生きるのが楽になるかもしれないところだけ、つまみ食いでアドラー心理学について、メモしてみます。

 

 

目的論

アドラーでは基本的に「目的論」。フロイトなどのように過去の出来事が今の自分を形作ったとは考えない。よって、トラウマは否定。

全ての人は何か目的があって、理由があって、今、そういう状態になっている、そう行動していると考える。また、その行動は本人なりの善(マイナス→プラスへ)に向かって行動していると考える。

極端な例を挙げると、引きこもりの人は、引きこもる目的があって引きこもっているのであって、他者や環境によってそうさせられているということではない。と考える。

こう考えれば、自己責任にかなり寄り切った感じでイメージすれば近いのではないかと思われる。

 

課題の分離

課題の分離についても、先ほどの例を考えるとシンプルである。ある行動を選択した場合に最終的に結果責任を背負う人が課題の持ち主である。それ以外の第3者は支援しかできないし、するべきではない。

前の例だと、引きこもり本人が引きこもった結果の全責任を負うので、この引きこもりという課題は本人のものである。それをみて悩んでいる親がいても、親がこの結果責任を直接負うわけではないので、親にできるのは本人が望んだときの支援のみということになる。これを逸脱して、土足で踏み込むようなことをすると、本人にとっても親にとっても苦しく、不幸であり、衝突が起きる。

勇気づけ

上記の例の時の「支援」の提案にあたるのが「勇気づけ」。一般的にいう「勇気づける」というのとは違い、ヘルプが必要ならしますよ、という声かけのようなものを指す。

最近よく聞く、サーバントリーダーシップにも近いかもしれない。

人が持つ悩みのすべては「人間関係」

どんな悩みも他者がいて初めて成立するので、その他者がいなくなったら、悩みというものは意味がなくなってしまう。

よって、全ての悩みは人間関係と言える、ということ。

例えば、「劣等感」。これは、個人的悩みに聞こえるが、そうではなく、人と比べて自分を自分で評価して、劣っていると考え、悩むことなので、自分がそれを劣っていると考えなければ、悩みにならない。

コーチングでも手法としてあるが、リフレーミングして本人の捉え方を変えてしまえばその悩みは悩みではなくなってしまう。

例えば、「臆病で行動が遅い」、ということが劣等感で、コンプレックスと捉えている人Aさんがいたとして、他者がそのAさんに対して「Aさんは、繊細で慎重なんですね」と評価する。

Aさんの同じ性質に対して、どう捉えるかで表現・評価は一変してしまう。つまり、人からどう思われていると本人が考えるかで、劣等感は生まれるということになる。

このように考えると、全ての悩みは「人間関係の悩み」ということができる。

 

本を読みながら、思い出してみて考えたこと

自分以外の他者と過去は変えられない。よって、自分か未来を変えるしかなく、行動の結果は自分で負う必要がある。

考えてみたら、当たり前の話ではある。

事実は一つしかないけれど、現実は人それぞれの見方、捉え方で変わる。

例えば「赤」という人によって捉え方が違わないように見える色の定義も、実は、持って生まれた目の違いでピンク気味に見えている人も、赤に見えている人も居るそうだ。それでも、皆、自分なりの赤を「赤」だと定義して、「赤」と呼んでいる。

他者と比べて、差のなさそうな色名でさえ、そうなのだから、人の頭の中を他者が見て見比べられたら、きっとその人なりの現実が人の数分ある。その現実を言語化するときに使う言語もそれぞれ人の数分レパートリーがある。

言語化して初めて、概念は存在できると聞く。
例えば、明治期までキリスト教の「恋愛」にあたる概念は日本にはなかったので、日本語訳ができず、造語で作ったという話がある。つまり、そういう概念がなかったので、名前がなかったということである。名前がなかったなら、意識しないので、存在しないのと同じである。

言葉を選んで言語化することは、その言葉を選ぶことによって、対象に対しての自己評価もするし、その個人の現実を定義するということでもある。(現在の私なりの結論)

 

考えてみて、思ったことのまとめメモ

人が何かの事実を自分なりに捉えるとき、どういう言葉でそれを表現するか、が大事だなと読み返してみて思いました。

色々な文脈で出てくる話でコップに入っている水を「半分も入っている」と表現するか、「半分しか入っていない」と表現するかによって、捉え方が違っているという話があります。捉え方が違うのだから、そこから見える現実は人それぞれ。

自分が悩んでいることは他の人から見たら、悩むことはないかもしれない。

悩んでいる、悩むべきポイントが実は違うかもしれない。そこに自分で気づけたら、少しは悩みを解決する一助になるのかもしれません。

私はそのために心理学や哲学を学んでいるのかもしれません。

誰かのお役に立てることを祈って。

 

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