360度評価は報酬と連動してはいけない
360度評価。皆さんの会社では実施してますか?
その評価、人事評価として報酬に反映されますか?それとも実施、フィードバックを受けるだけで、お給料には関係ない話になってますか?
どちらでしょう。
360度評価のお話。
360度評価の問題点
巷で言われるのは、お互いに評価することになるので、評価全体がお互い様効果で歪められてしまう可能性が出てきてしまう点。
自分も同じ人に評価されることを考えたら、厳しい評価はつけにくくなったりする。
※360度評価自体の問題というより、この条件下では評価内容にバイアスがかかるので、実施の意味がないというのが正しいのかもしれない。
このような点を問題点とする意見を聞く。
360度評価の評価結果の傾向性
実際に実施した場合に、評価結果自体に傾向性が出てくることが確認されている。評価自体の精度に問題が出てしまうということである。
具体的には360度評価の場合、評価軸で提示されている指標全体が高めになる人、低めになる人が多発すると言われている。
ハロー効果というものがある。評価基準に関係ない人に対する印象が各評価軸に影響してしまう現象であるが、これに該当するのかもしれない。
注:過去の記事
人事評価する時に気をつけたいこと - 心の解析メモ〜個人的心理学整理ノート〜
普段関わっている人の場合、その人に対する全般的印象が元々あり、いざ評価するということになって細かな評価軸がそれぞれ提示されていても、その評価軸に、その印象が反映されてしまうことは容易に想像できる。
その全般的印象が、仕事の中だけでの印象なら、妥当な可能性もゼロではないが、仕事外の付き合いもある人があったり、趣味が同じ人がいたり、性格が似ている人がいたり、でバラツキが出るので、形成された印象が仕事上の評価として正しいかは不明である。よって、この事象は恐らく、問題があるということになる。
360度評価を有効に使うには?
となると、双方、評価によって不利益が発生しないことを確認した上での評価が絶対的に必要ということになる。
その前提で、結果を活用することにより、確認の自己評価と、実際、他者から見てどうなのかのギャップを確認でき、評価者、被評価者がお互いに改善を期待できる。
人はそもそも放っておくと、自己評価は高めになりがちになると言われている。
その補正としても有用。
まとめてみて
あちこちで360度評価しています、というのを見かけます。
その360度評価の実施条件によって、有用性自体も変わってしまうんだな、と気づき、道具も使いようなんだなと思いました。
なかなか、率直に評価のような内容を言葉にするのは難しいですが、その直截な影響を外してあるかどうかで評価の内容自体が変わってしまうことは考えてみれば当たり前ではあるので、その後の挙動、目的が大事、というということですね。
心理的安全性はチームに「絶対に必要」「最も必要」なわけではないかも?
最近流行りの「心理的安全性」。
どこでも、デメリットは聞かないのですが、
ものにはほぼ絶対に例外なく裏表があるものだと信念を持って(笑)探したら、
やはり、向き不向きがあるという論があるようです。
心理的安全性のデメリットについて
心理的安全性とは
一言で言うと、「安心して率直に意見を発言できる状態」
特に「問題を指摘すること」や「他人の意見に異議を呈すること」、「自分がわからないことをわからないと人に問うこと」などに身構えなくても良い状態のこと。
特に昨今の様な「不確実性」の高い環境でビジネスをする場合は、この効果は大きいと言われる。
心理的安全性と「ぬるま湯」
心理的安全性のイメージは悪く取ると、よく「ぬるま湯」に例えられる。
いわゆる「ぬるま湯」との違いは、チームとしての「結果」を良くするために、
- 個々のメンバーに対して「苦言」を呈する
- チームのために問題の指摘をする
- メンバー間の雰囲気の維持や、良い反応よりも、チームとしての結果を優先する
などができる点とされる。
心理的安全性の機能しない条件
心理的安全性の意味がない環境が「ぬるま湯」と逆に考えることもできるが、
上記の通り、心理的安全性が機能する条件は「チームのために、結果を求める場合」ということになる。
となると、機能しない場合はその逆になる。
例えば(その1)、「チームのために」が抜けて、強い個で動いていて、個々人が競争で動いている組織。
この場合、チームで動くことが重要視されないので、協力関係にならない。
心理的安全性が高くても、それは他人は「関係ない、放任」と同じことになるため、おそらく期待するような効果は出ない。
むしろ、放任されているので、動くのは個々人の自由という形になり、おそらくモチベーションも個々人次第ということになる。逆に表現すれば、サボるのも自由、となる。
(心理的安全性環境下では平均的にモチベーションが低下する場合があり、それにより個人主義の場合には、チームで動いている組織に比べて心理的安全性で得られる効果が出ない、という論文がある様です)
例えば(その2)、「結果を求める」が抜けて、結果を求めず、プロセスのみを重要視する場合。特に結果を求めないなら、チームの雰囲気や進めやすさを優先してしまうので、これもやはり期待するような効果は出ないと考えられる。
まとめてみて
心理的安全性にも適用のジャッジが必要なんだな、と思いました。
組織を作りたてで、ルール等を決めている最中の場合、まずは何を目標とするか、という話になるかと思います。
その場合、チームがチームとして動けているなら、心理的安全性を念頭に置いて、積極的に担保する方向に動いてもいいのだと思います。
しかし、チームがまだチームとして動けていないほど若い場合、例えば、腹の探り合いや人となりを確認する作業をしている段階であり、チームとして動けていない場合は、直接的にチームとして動ける方策の方をまずは考えるほうがやはり良いのではないか、と考えました。
実際、体制を構築するとなったら、まずはXXXなチームになりたいとか、適宜、定義すると思うのですが、その時に、どちらかというと、内向きの「心理的安全性」を先に気にするよりは、もっと外に向かって何かをコミットすることをチームとして考えていくほうが、結果的に心理的安全性の高い組織になれる気がしました。
人事評価の科学。組織的公正について
人事評価は双方納得するのが肝ですが、なかなか難しいことです。
公平な評価であれば納得感もあるのでしょうが、それぞれ「公平」はきっと違いますよね。
日本のとある企業の調査結果によると、評価に満足しているのは4割程度なのだそうです。なかなかの低さです。
「組織的公正」について。
組織的公正の概念
内容を大別すると以下の2つで構成される。
- 分配的公正
受け取った報酬、分配結果に対して感じる公正性のこと。 - 手続き的公正
分配が決定されるまでのプロセス、手続きについて感じる公正性のこと。
他にも、「相互作業的公正」(上司、部下の間の関わり、コミュニケーションを公正と感じる)、「情報的公正」(情報が適切に開示されていると感じる)などがあるとされる。
最も影響するものは?
上記の大別した2つのうち、1の分配的公正は、同じ評価であっても個々人に捉え方が変わり、皆で合わせていくことはやはり難しいと考えられる。よって、基本的には2の手続き的公正を上げていくのが良いとされる。
つまり、評価プロセスに関与できるようにする、それぞれの関与度をあげるようにすること、それが大事。
手続き的公正をあげるには?
手続き的公正には以下のような条件が必要とされる。
- 評価精度を高める
評価される側の業務をよく知っているものが評価すること、評価軸に偏りがないことなどに配慮する - 仕事自体のプロセス、自律性
仕事のプロセスについて裁量権を認め、進め方自体の自立性を高める。また、自分の得意な仕事など、仕事自体の選択を認める。あるいは、担当範囲について納得感を高める - 評価者と、被評価者の間で十分なコミュニケーションが取られている
仕事内容や、範囲に対する2者間での合意や、必要な援助の確認など - 評価の結果をフィードバックする
どういったことがその評価結果をもたらしたのか、などの開示 - 評価結果に対する申し立てができる
- 手続き自体が正常に働かなくなった場合などの変更ができる
以上の様な条件で、手続的公正は上げていけるが、評価プロセス自体をすぐに変えにくい、という場合もありうる。
その場合は、「相互作業的公正」(コミュニケーションに配慮)、「情報的公正」(適切に情報開示)などの対応を実施することによって、手続きプロセスを真正面から変えなくても手続き的公正を多少は高められるという研究結果もある。
そもそも評価される軸が企業によっても違うので、その反映が必要
上記の公正の観点以外にも、組織の価値観によって、A社とB社では当たり前が違い、評価軸が違うことが考えられる。この評価軸、価値観が評価プロセスに反映されていないと手続きに反映されていないことになり、手続き的公正の感じ方が低くなる、ということになる。
手続き的公正が高ければいいのか?
これについては問題がある場合もあるそうだ。
手続き的公正が高いということは、あらかじめ明確に決められた基準を越えれば確実に約束された報酬がもらえる、ということなので、これを好まないパターンの人がいる場合である。
例えば、リスクをとって、結果としてかなり好成績を収めるような、そういった行動を取る人材。この場合は好成績でも約束された報酬しかもらえない場合もあるし、決まったルールを好まない。
また、予め決められたわかりやすい評価で動くことがそもそも苦痛、退屈と思う人員、いわゆるリスク志向の高い人材はこの様な状況ではなかなか定着しにくい。
よって、新規事業を専門に行う部署や、ベンチャー企業など、リスクの高い環境によくいるタイプの人材についてはこの手続き的公正が高すぎる環境では難しい。
まとめてみて
評価関連として、「公正」について、まとめてみました。
何をもって、評価が公正と言えるのかについても人それぞれ確かに違うなぁと思いました。また、公正、明確なことが誰にとっても絶対に良い、というわけでもないということも目にしたので、思ったよりももう一段複雑な問題なのだな、、と思いました。
ほとんどの人に良さそうな話であっても、探せば、例外というものは見つかるものです。
良さそうだと巷で言われているものも、例外はないものかと肝に銘じておくと、発見があるのかもしれません。
モノは言い様、捉え様
心理学や、組織(心理学)、それに関連したプロジェクト管理系の本を読んだりして、勉強し直しているわけですが、心理学って、ちょっと有名な、フロイト、ユング、アドラーになると、途端に哲学っぽい感じになるんですよね。
なので、哲学の領域に少し足を突っ込んでいるのかもしれないなと思ったりします。
そうなると「言葉」というもので世の中をどう捉えるか、「言葉」ってどういうものなのか、ということになるのですが、こういう話を考え出すと、高校1年生になる前の春休みに蛍光マーカーを引き引き読んだ「ことばと文化」という岩波新書の内容が頭をもたげます。
思えば、この本は私が「言葉」で人は世界を捉えて現実を認識する、その現実は一人一人違うんだと考えるきっかけになった本でした。
もう、何十年も立っているので、この本の主張とは違うことになっているかもしれませんが、ことばと現実の話。
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人は日々、その人なりの現実を捉え続けていて、それがその人を形作る
人は選ぶ言葉によって、周囲を把握している。主観的に捉え、その人の現実がつくられる。
その日々、捉え続けている現実が、そのうちその人の価値観になり、その人の世界になる。
例えば、以下のような言葉を聞かないだろうか。
- 「XXXな場合は無視すればいいんだよ、自分はいつもそうしてる」
- 「気難しい顔をしている人は案外話してみると気さくだよ」
- 「30分も遅刻するなんて」
- 「人のものは勝手に持って行ってはいけない」
- 「もう、約束の時間まで5分しかないよ」
それぞれ、その人の過去の経験やその人から見えている現実ではそういうように見えているということ。常識も国や環境、文化が変われば違う。その人なりの常識も同じようなことになる。
自分をずっと否定されて育つ人は、そういう世界観で自分の周りを捉えてしまうから、自分に対する評価が低くなりがち。自己肯定感や自己受容度が低かったりする。
自分で何かを選んで行動した経験が少ない人は、自分で出来た経験がないから、自分を信じられずに、自己効力感が低かったりする。
自分に対する自己評価は、そのまま、その時の自分の行動や反応に影響する。
自分に自信がなければ挑戦はしにくくなる。できる気がしていないので、再トライをせず、何かを諦めることも早くなる。
相手が良い反応をしてくれると信じきれないから、相手がどう反応するか反応が返ってくるまで、あれこれ心配して考えてしまう。
足りない自己肯定感や効力感を埋めるために、他者への承認要求が強めになる。
その人の現実は、そうやって日々、形作られる。その人の行動も態度も表情もそうやって日々作られ、それが周囲の人から見たその人像を作る。
これが巷で言う「ひきよせの法則」とか、そういうことにも関連している気がしている。
人は「言葉」で現実を理解する
その現実は「ある」だけではその人にとって「ある」ことにはならない。
目の前にあるものや、目に見えない概念なども、ことばでラベルをつけて他と区別しなければ意識されない。意識されないのはほぼ「ない」のと同じである。
例えば、植物に興味のある人は駅の庭木もそれぞれ違っていて、違うものに見えているが、植物に興味がなくて種類がわからない人にとっては違いを意識しないし、わからない。同じに見えているので、違うものとしてはそこに「存在」しない。もしかしたら、庭木自体がそこにあった認識すらないかもしれない。
時間の概念も考慮に入れたら、記憶にない、覚えていないことはその人の現実としては存在しなかったのと同じこと。(そうはいっても他の人が覚えていたら「存在」したのは確からしいと言うことにはなるが、その人としては「存在」しない。モノは考え様で捉え様である。)
(家族は歳が妙齢なので、記憶力に若干、難があるが、自分が覚えてないことは「なかった」と言い張るので、困る。それも本人的には真実ではある……)
言葉は何かと比較する、条件を加えることで意味が明確になる
人は言葉を使って、その周囲を世界を捉えているが、「言葉」自体はどうだろうか。
例えば、「良いこと」と「悪いこと」。この世から「悪いこと」が全部なくなったら「良いこと」は定義できるだろうか。意識できるだろうか。
暴れん坊将軍は悪代官がいるから、勧善懲悪で成立するけれど、悪代官がいなかったら、ただの困った将軍かも?「善」のままでいられるだろうか。どんなシチュエーションでも問題ない、完全な「善」はきっと「存在」しない。
「素晴らしい」ことはいつでもどこでも同じ様に「素晴らしい」だろうか。その時、「素晴らしい」と思ったことも、今考えたらそうでもなかったり、他の人から見たらそもそもそうじゃなかったりしないだろうか。きっと、「素晴らしい」と思ったからには、その理由や背景があって、その時、その人が、その条件で「素晴らしい」と思ったはずで、絶対的「素晴らしい」はきっと「存在」しない。
さらに、「光」と「影」。「光」がなくなったら、「影」は存在できるだろうか。そんな概念は残るだろうか、定義できるだろうか。難しい気がする。
目の前に、そこに事実はある。
けれど、言葉にした時、その言葉はその言葉のその人なりの捉え様や言い様でさまざまに変わる。「言葉」だけに注目してみても何かと比較したり、条件を加えて比較するなどしないと「言葉」は意味をうまく持たない。名詞も「言葉」なので、それを「言葉」で説明する、認識するのに限界があるのかもしれない。
呟いてみてまとめ
実在論とか、実証主義とか、構造主義とか、哲学系の話題がアドラーなどをみていると出てくるので、言葉ってやっかいだなぁと中高生の時に思ったきっかけの本を思い出し、最近、学んだ心理学の分野の考え方も入れて頭の中の整理してみたものです。
ピンとくる同じ様な方もいらっしゃるでしょうし、こない方もいらっしゃると思います。
こういうものは後で見返したら、自分にも発見がある気がしたので、記録しておきます。。
協調性が高い人は他者に厳しい(かも)
少し前に心理的安全性についてつぶやきを書きました。
その時、日本人は同調圧力が高めといわれるので、、と書いたのですが、その理由の一つかもしれないことも見つけたので、メモを記録します。
遺伝的にも原因があるかもしれない、というお話です。
その時のブログ:
心理的安全性とスクラム(チーム運営)、徒然なるままに… - 心の解析メモ〜個人的心理学整理ノート〜
最後通牒ゲーム
100万円があり、その前にAさんBさんの2人がいたとします。この2人で100万円を分けるとき、Aさんに取り分の割合の提示権を、Bさんにその承認/拒否権を与えます。
Aさん提示の配分割合にBさんが承認を行った場合にのみ双方、そのお金が受け取れます。Aさん提示の配分割合にBさんが否決をした場合は双方、お金が受け取れません。
双方、バランスを取ることが求められるわけです。
このルールが「最後通牒ゲーム」といわれるそうです。
最後通牒ゲームの結果の傾向
最後通牒ゲームでの配分について、実際に実験をすると、Aさん役提示の配分割合が半分(5:5)なら、ほぼ拒否権が発動されることはなく、双方、お金が受け取れます。
配分割合に偏りがある場合、つまりAさん役が自分の分を多めに取ろうとした場合に、Aさん役(配分割合の提示する側)が自分の取り分をある一定の割合※にするまでは、Bさん役(承認する側)は承認するそうですが、Aさんの取り分がその割合を超えてしまうと、Bさん役が拒否する確率が8割を超え、それまでの拒否権発動割合と逆転するそうです。
※実際にはこの場合、7割、7:3あたりが分岐点になるそうです。
Aさん役が自分の取り分としてそのある一定の割合以上を提示する場合、つまり、極端な偏りがあって、公平でない、その差分は許せないと感じる場合、ほとんどのBさん役の立場の人は承認しない、拒否権を発動するということです。拒否権を発動してしまえば、全くお金がもらえないのに、です。
Aさん取り分の配分が全取り(10:0)でもない限り、これ自体はとても非合理的に見えます。拒否権を発動しなければ、少しだけでも自分も取り分をもらえるのですから。
なぜBさんは非合理的な行動をするのか
ここで、Bさん役の拒否権の発動の傾向については、ばらつきがあったのだそうです。
少々不公平な割合でも合理的に妥協して、承認をするBさん役と、損をしてでも拒否権を発動してしまうBさん役との違いは何か、という点について、従来はその人個別の「攻撃性の高さ」が原因ではないかと考えられてきたそうです。
ですが、これを心理学で代表的なパーソナリティを分析する性格検査を行なって確かめたところ、そうではなく、拒否権を発動しやすいBさん役については「協調性の高さ」が共通点だったのだそうです。
つまり、協調性の高い人は、基本的に個人の利益よりも集団の利益を優先するので、自分が損をしても拒否権を発動し、不公平な事態を許さないという行動をとっていると考えられます。
逆に表現すると、協調性の高い人は、不公平や他者に厳しいと言えるということになります。特にまじめで日々努力をしている人ほど、それを他者と比べて、不公平を感じることになるので、他者に厳しくなりやすいのではないかと思います。
おまけ:協調性の高さは遺伝する?
この時、協調性が高い、先ほどの実験で拒否権を発動しやすかったBさん役の人は脳内にも特徴があったそうで、脳内の「セロトニントランスポーター」というタンパク質の密度が低かったそうです。
セロトニントランスポーターの密度が高いと楽観的な判断をする傾向があることがわかっており、これが低いということはこの人たちは悲観的な判断をする人たちで、その結果、勤勉で準備を怠らない人たちということになります。
協調性と、このタンパク質濃度が低い件と、どちらが本当の原因か2つともなのか、は正直、ちょっと腹落ちしませんが、このような人たちが前に述べたゲームでは非合理的な行動に出るわけです。矛盾はしてない、と思います。
このセロトニントランスポーターの濃度は影響する遺伝子が判明しており、S型L型の2種類の方の組み合わせで決まり、SS型が最も低くなるそうでです。
日本人はこのSS型の保有率が世界の中でも高く、7割近くが該当するそうです。LL型は2%しかいないそうです。となると、低い傾向を示す遺伝子の保有率は98%となります。こんな確率なのは日本以外にはないそうです。
つまり、日本人は98%の人が遺伝子的に悲観的に考える素養を持っていて、協調性がおそらく高い人が多く、これは世界の国の中でも特異なことであるということになります。
終わりに
少し前に勉強した内容について、関連した内容を見かけたので記録してみました。
私なりに印象的だったところの記録と、自分なりの解釈も入っているので、細かい内容が気になる方は、以下の本をぜひ。
この記事が気になった方はこちらをぽちっとしていただけると、記事の傾向がきっと少し変わります。。。
やりたいこと、得意なことがわからない?
先日、お客様先の新人さんと軽くご飯に行きました。
その方は「今の仕事が自分にとっては向いてない仕事。だけど、他の人に比べて、得意でないから頑張らないと、、と思える。それはそれで良いと思っている。頑張ります。」とおっしゃっていました。
仕事歴が短いのと、劣等感をバネにして頑張れるうちはそれでいいと思うので、特に何もコメントしませんでしたが、、、うーん。と思いました。
気になったので、今日のエントリを書いてみます。
やりたいことがわからない人、得意なことがわからない人、いませんか。
私も今もわからないですが、わからなくて当たり前なんですよね。
でも、やりたい、興味が湧くことのほうが効率がいいことも事実。
あなたの「やりたいこと」の定義はなんですか?
人それぞれ、「やりたいこと」「得意なこと」の定義は異なる
「やりたいこと」とは何なのか、「得意なこと」とは何なのか?これが結構、人によって定義が違う、説明が違うということに最近気づいた。
- やりたいこと
→自分が好きなこと
→自分が得意なこと(やりたいこと=得意なことという人もいる)
→直接やることではなく、その行動の先にある影響で説明
例)人の役に立てること
→自分が時間を忘れて没頭できる、集中できること
→自分がやってて苦にならないこと
→興味があること、面白いこと(英語でいうInterestingの方) - 得意なこと
→人より早くやれると自分が思っていること
→人より上手くやれると自分が思っていること
→比較して他者よりも早くやれたり、上手くやれたりする実績があること
→やってて自分が苦にならないこと
代表的なものを並べてみたが、自己評価で定義する人もいれば、他己評価や事実で定義する人もいる。得意なこと(=評価されること)を好きなこととする人もいる。逆説的に「苦ではないこと」と定義する人も。
やりたいことがわからない、得意なことがわからない
この2点に当てはまると言う方は、自分の中のその定義をはっきりさせてみるとよい。
得意なことは自分が得意だと思うなら得意と定義することもできるし、そうでなく他者からの評価での場合もある。好きなことも同じ。
自分の定義、例えば、どうであれば得意と言えると感じるのか、を少し掘り下げてみると、なぜ「わからない」か、なぜ「見つからないか」がわかる。
そうなったら、あとは覚悟を決めればいいだけ。見つからないものは見つからないし、定義のほうを自分と相談して変えていくことで、得意なこともやりたいことも見つかる場合がある。
そうなれば、自分が「得意なこと」「やりたいこと」と信じることができる。どちらも見つかる。
「得意なこと」「好きなこと」を明確にすると
得意なこと、好きなことというのは、嫌いであったり、辛いと思うことが少なく、上手くいかなくても諦めずに努力できることだったりする。
つまり、初めから得意でない、嫌いと思っていることを行うよりもハードルが低く省エネ。
例えば、アクションゲームが得意でないと自認する人はアクションゲームをいざやってみた場合、うまくいかないところがあったら、すぐ、「もういい」ってやめてしまう。ところが、アクションゲームが得意な子供は何度もトライして、何とかクリアしてしまう。
何か障害があっても苦なく努力できる。こんなところに、少なくとも、ある活動に対する自己評価が結果として現れる。※「自己評価」がポイント。
自分なりの「得意なこと」「好きなこと」を知っていると、選択する時に、「得意なこと」・「好きなこと」を選べるようになるので、不得意なことなどで消耗しない。
まとめてみて思ったこと
新人の方と話してみて思ったことをまとめてみましたが、これを残念に思ったんだな、と自分自身も気がつきました。
私自身は得意なことや好きなことで仕事してもらう方がパフォーマンスが出て効率的だと信じているので、もっと楽に頑張れるかもしれないのに、もったいない、、と思っていたんでしょう。。(お説教的な話をしなくてよかった……(苦笑))
この辺は、他の方とお話しすることや、心理学系の本を読むことで認識を変えることができる場合があると感じます。
もしも、おやっとひっかかる方がいらしたら、どこかのコーチのかたや、自己啓発系の本をお読みになってみると良いと思います。日常をもう少し、楽に生きられるようになるかもしれません。
組織が変わるとはどういうことか
組織変革、チェンジマネジメント、とは何でしょう。
組織が変わるのって、組織図を変えることでしょうか。管理する人の管理範囲(=陣地)を取り合っているような印象で組織図を変える中小企業って多いですよね?
組織変革ってなんでしょう?
組織変革とはその組織で動く人が変わること
当たり前ですが、組織図を変えようが、職掌を変えようが、管理者を変えようが、組織が変わるのは、すなわち、そこに所属する人それぞれの行動が変わること。
W.ブリッジズは人が変わっていく様を、「終焉」(今までの何かが終わる)→「中立圏」(混乱・苦悩・整理など)→「開始」(新しく何かが始まる)とモデル定義した。
「何かを変えること」は今ある何かが終わって、それを認めて、整理して、それが終わって初めて、次の新しい何かを始めるということなので、このプロセスを飛ばすと、何かを終えることができずに現状を引きずったりして、うまく変化できないという事態を引き起こす。
変化が起きる時には、これが個々人に起きて、それが組織を変えていく。
組織変革が起きるときの問題
組織が変わる=個々人が変わることであるが、そこにはいくつか問題が発生する。
- 組織変革には 感情の問題が発生する
- 組織変革には 政治的な動き、パワーバランスの変化があり、そこに問題が発生する
1について、組織変革する時、なぜ組織が変わらねばならないか、どうすべきか、環境の変化を見極め、変革する流れ・プロセスを合理的に定義するはずだが、そこにはどうしてもその組織で働く人の感情が影響する。
仕事内容自体に思いのある人もいるだろうし、変えることによって何か気にかかることがある人もいる。人はそう簡単に今までのやり方を捨てて、変わることはできない。自分が納得して、今の状況、仕事の仕方を終わらせて、整理して、次のやり方を飲み込んで、次を始めなければならない。
また、組織の中の人と人で温度感が違うと言うこともあるかもしれない。人が集団になると、同調圧力も生まれる。早い時期に変わろうとする人にも、もちろん同調圧力が働く。さらに、元の組織の纏まりが強ければ強いほど、方向性が揃っていれば揃っているほど、それだけ常識が浸透して変わりにくい可能性が高いので、やはり変りにくくなる。
上記を考えると、完全に合理主義100%で、ロジックのみで組織が変わることは難しい可能性がある。情緒面にも気を配る必要がある。
2については、組織にしばらく所属していたら容易に想像がつくと思われるが、いわゆる責任範囲、パワーバランスの調整などの社内政治の問題の発生。部門間での人の取り合い、派閥や、職能部門間での業務範囲の取り合い、変化が確定するまでの途中経過の過ごし方などの問題が発生する。これを対処し、乗り越えていかないとうまく変化できない。
部門間でも社内政治の結果、組織変革に対しての抵抗が発生することが考えられる。
自分達の部門の利益や権力よりも、目的の組織変革を優先することをできない場合、問題が起きる。
組織変革の阻害要因
J.P.Kotterは組織変革が失敗に終わる理由を6つあげたが、そのうちの1つに「現状満足を容認する」と言うのがある。
すなわち、「危機感を感じない」、「危機感を感じていても現状でいいと思っている」ので、組織変革の必要を感じていない、当事者意識がないということ。
それがないと、目的の変革よりも社内政治が優先されてしまうことになる。
また、組織が変わるには個人が変わらねばならないが、個人が変わることもまた、当事者意識、危機感が強くないと難しい。
変わっていくには何かを終わらせて、次を始めなくてはならず、現時点では確実になんとか(うまく)動いている現状を捨てて、うまくいくかどうかわからない次のことを始めるのは、現状に対する未来への危機感が動機にないと、心理的抵抗も大きい。
自分の仕事結果に対する責任感が強い業務当事者なら、なおのこと、変化するのは難しい。
そうなれば失敗への寛容さや率直にものが言える風土(心理的安全性?)が組織には必要になってくる。
まとめてみて
組織変革について、本を読んでみてまとめてみましたが、あちこち読むと色々なものがつながっていきます。
似た範囲の分野の本を読むので、そうなるのは当たり前なのかもしれませんが、ある事象を別の切り口で眺めてみたような話になってくるので、事象を分類する(=定義する)ことは、その事象がその人の見えている世界に現れると言うことなんだなと実感します。
人は、基本的に、変わることを拒否します。怖いと感じます。
私自身は自分に変化がないことが怖い方の人間で「珍しい」と言われますが、それさえも見方を変えれば、常に変わっていることが自分の普通で、立ち止まることが自分にとっての変化で、それが「怖い」からなんですよね。
日々、追い立てられてる気がして、ちょっとだけ疲れることもあります。
組織が変わることも、組織は今の現状でなんとか動いているから存続しているわけで、それを変えることはやはり怖い、ということなのでしょう。
これを変えるには危機感を共有しないといけないわけですが、「危機感」よりは「改善」のほうが日本人らしく、気分的にも追い詰められた感がしないので、そちらの方がいいなぁと思いました。
もしかしたら、「危機感」で動くのはマクレガーのX理論な言葉のチョイスなのかもしれないですね。「より良く改善」のY理論的な発想でいきたいものです。
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